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恩師の藤川先生が退官されました。




すぐ脇にいるのが僕です。
この時にさせていただいたスピーチの原稿が発見されました。
   
    ↓

藤川先生御退官の挨拶

いつかはこういう日が来るものと思っていましたが、
僕にとって東大に来れば藤川先生がいらっしゃるものと思っていたので
藤川先生が御退官されることは率直に寂しいです。

藤川先生が東大で最初にとられた学生が僕だったということで、
藤川先生のことなら何でも知っているかといわれると、
そんなことはないです。

今日は、僕の知っているエピソードを交えながら、
藤川先生との思い出を振り返ってみたいと思います。

今から1年ほど前のことですが、ドイツからSupersymmetryで有名なWessが
来日しました。
僕は浦和の宿舎から東大の藤川先生までの道案内をさせて頂いたのですが、
丁度サクラが花をつけ始めるいい季節だったので、電車を乗り換えずに
上野の公園口から不忍池を横切る道を選びました。

Wessは子供のように好奇心の旺盛な方で、
「あれはさくらか?梅じゃないのか?」
「あのシンボルは何だ?何の建物だ?」
「あれは何だ?弁天?何の宗教だ?」
「あのカモはどこから来たんだ?」
等、いろんな事に興味を持っていました。

後日、うちの大学の志摩先生がWessとご旅行されたときに、
そのWessがある質問をしました。
「あ、そう」というのはどういう意味だ?
志摩先生はしばらくポカンとした後、ようやくその意味に気づいて
話をしているうちにWessの着眼点の素晴らしさと洞察力に驚かれたそうです。

いわれてみれば、僕自身、「あ、そう」という言葉には少なからず思い出があります。

僕は藤川先生の東大での最初の弟子だったわけですが、僕の学年はみな素晴らし
く元気が良くて、入学当初からシニアなスタッフと活発に議論をして
どんどん共同研究をしていきました。
そんな粒ぞろいのはえぬき同級生の中で、僕だけが薬学出身の門外漢で
もちろん飛び抜けて出来が悪くて
入学当初は藤川先生が本当に気の毒だと、自分が主たる原因でありながら
トンチンカンなことを考えていました。

ところが、藤川先生の方はそんなことはおくびにも出さずに、
廊下で会うと、きさくに
「松田君、ちょっと部屋に来なさい」
といって部屋に呼んで、
「最近何をやっているのか、報告してくれますか」
と、言ってくれました。

ところが僕の方は前の年までは薬学部でネズミの口を空けさせてえさを流し込ん
でいた人間なので、頭の中はそれこそ打てば響くほど空っぽでした。
そんな僕が先生と一対一で物理について話すと言うことは今から考えても
なんと恐ろしいことだったのかと、冷や汗をかきます。

もちろん、最初はただ お叱りを受けていたのですが、やがて僕も
あらかじめアイデアを準備して、なんとか説明するための物理を勉強して
「対談」にのぞむようになりました。
僕自身、今思い出してもぞっとするほどでたらめな話や幼稚な話題も
あったのですが、藤川先生は僕が一生懸命考えてきたときには
話の途中で

「ダメだダメだ、もうやめなさい」

などということは絶対に言いませんでした。
必ず、最後まで一生懸命話を聞いて、

「あ、そう」

といったあと、考え込んでいたのを覚えています。
そして、今から考えても穴に入りたいような僕の数々のアイデアに
正面から向き合って、どうすれば今後の仕事に繋がるのか、
一生懸命考えてコメントを下さいました。

もちろん、その後には厳しいお叱りを受けるのですが、
当時の僕にとって、藤川先生にお話を聞いて頂くことは大変な
心の支えだったことは言うまでもありません。

思い出してみると、僕以外の方と何の話をするときでも、藤川先生が
最初から相手の話を遮ってしまうという様子を僕は見たことがありません。
どんな話でも、必ずニュートラルな頭で話を聞いて、相手の話が終わると

「あ、そう」

といってしばらく考えて、一生懸命相手の話を理解しようとします。

それが才能によるものなのか、それとも苦労の末に身に付いたものなのかは
分かりませんが、研究者として、あるいは教育者としての藤川先生の
人柄が

「あ、そう」

という言葉に凝縮されていると思います。

こうしてみると、Wess が日本語がまったく分からないのに、藤川先生の会話に
出てくる
「あ、そう」
という言葉に特別な興味を示したことは、Wessの非常に驚くべき洞察力に
よるものだと、話をして下さった志摩先生と一緒に驚いていました。

Wessも苦労人なので、Wessなりに何か特別に感じることがあったのだろうと思います。

僕は薬学部からやってきて、内部の方にはなかなか理解しがたい孤独と苦悩に
悩まされました。

どうして物理に来ようと思ったのかとか、
どういう苦労があったのかとか、
どんな決意で物理を志したのかとか、

人前でそんな重苦しい話をすることはほとんどありませんが、
それでも大学院試験の面接で

「もしも落ちたら、どうするの」

などという、体重が5kgは減りそうな質問をされたときや、
初めて藤川先生にご挨拶にいったときには、
そういう重い話が口をついたことがありました。

そういうとき、藤川先生は遠い目をして僕の話を聞いていました。

僕が藤川先生の苦労話を聞いたことはほとんどありませんが、
藤川先生の
「あ、そう」
という言葉には、ご自身の大変な苦労と、そういう苦労をした人にしか
理解できない思いやりが隠されていたのだと思います。

最初、僕は折角東大に赴任された藤川先生が僕のような不出来な学生を
とってしまって本当に申し訳ないと考えていましたが、
藤川先生はそんなことを気にする方ではありませんでした。

僕が藤川先生から学んだことを表現するのは非常に難しいのですが、
藤川先生に御指導頂いた学生は、例え物理から離れても、
藤川先生の背中から学んだことを忘れずにしっかり生かして生きていくと
思います。

僕にとって人生を決定づける非常に大切な時期に藤川先生に御指導頂けたことは
本当に大きな財産だったと思っています。

藤川先生はまだまだお元気なので、これからも
Fujikawa Method 2,Fujikawa Method 3、4と
さらなるご活躍を期待します。

僕も、頑張ります。


ありがとうございました。