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学園創立110周年の歩み


学校法人智香寺学園は、明治36年の東京商工学校創設以来、平成25年で110周年という記念すべき年を迎えました。
これも諸先覚の教育に対する情熱と、努力ならびにたくさんの 人々とのご縁の賜によるものであり、心より感謝申し上げます。

学園創立110周年の歩み

明治36年(1903年)

浅草区森下町一番地に「私立東京商工学校」が誕生。17時から21時までの夜間部(商業、 土木、機械各科)として発足。
東京府の認可定員は200名であった。(現在の住居表示は、東京都台東区寿一丁目十番九号)

創立者

山下 谷次
明治5年、香川県仲多度郡十郷村で、山下重五郎の四男として生まれた。

私立東京商工学校の校舎と創立者の山下谷次先生
写真の校舎は創立期のものでなく、大正3年に神田区中猿楽町に移転してからのもの

学園創立110周年 ~学園の歴史について~

東京商工学校神田区淡路町校舎

東京都千代田区に建てられている震災記念碑
(平成24年に千代田区文化財に指定)

埼玉工業大学のルーツは、明治36年(1903)、現在の台東区に産声を上げた東京商工学校ですが、校舎は中学郁文館(現・私立郁文館高校)の分館を借り受けたものでした。その後の教育事業の順調な発展で、校舎は手狭になり、借用校舎の増築・移転を重ねましたが、ついに自前の校舎を、学校街であった神田区淡路町に建てたのです。時代の最先端を行く、鉄筋4階建て・総建坪730坪(2,400㎡余)の校舎でした。大正11年(1922)落成のこの校舎は、近くのニコライ堂ともに「巍然」と聳えたといいます。

商業部・土木部・電気部・建築部・機械部・工業化学部の構成で、各々予科・本科合わせて2年半の修業年限でありました。さらに、半か年の「電気高等科」と「商業高等科」を置き、その総定員7,000名。午前・午後・夜間の3部制で授業を展開しておりました。

この堅牢な校舎は、翌大正12年(1923)9月の関東大震災でもビクともしませんでした。それだけでなく、この大震災下において神田区淡路町一帯の住民の避難場所として、あるいは仮住まいとして、大きな役割を果たしました。地元町内会の人たちは、それに対する「感謝措ク能ハザル」気持ちを「記念碑」として表して、後世に遺してくださいました。

巡りめぐって、この震災「記念碑」は、平成24年(2012)4月、千代田区(教育委員会)によって、文化財に指定されました。なおこの校舎は、戦後明治大学に売却され、工学部聖橋校舎として昭和40年(1965)まで使用され、その使命を終えました。

聖橋中学校・聖橋高等学校

写真1:神田区淡路町校舎

写真2:荒川区尾久町校舎

神田区淡路町校舎は、現在の駿河台3丁目2番地にあったもので、校舎の写真が中々見つからなかったのですが、卒業生・R氏(現在84歳)の卒業記念アルバム(昭和24年3月)に収められていました。(写真1)この校舎の写真には「聖橋高等学校」と「聖橋中学校」の2枚の門標が懸けられています。

この2枚の門標の意味ですが、聖橋高等工学校は、昭和19年にそれまでの「各種学校」から正規の「中等学校」としての聖橋工業学校に昇格し、その後、戦後の教育改革が昭和22年4月に施行されることになったため、「聖橋中学校」を併設し、その新制中学校(3年制・義務)が全国で全学年一斉にスタートしました。

この併設の「聖橋中学校」は、「聖橋工業学校」の1~3年生と年齢的に重なりますので、1~2年に在学していた生徒は、「聖橋中学校」(義務制)の2~3年生として、新1年生と共に在学する事になりました。

さらに戦後の教育改革に伴い、翌昭和23年には「聖橋工業学校」が廃止されて、新制「聖橋高等学校」(普通科・機械科)が開設されました。この「聖橋高等学校」への編入は、「聖橋工業学校」が戦後5年制(選抜試験)になっていたので、在学していた生徒は希望によって、試験を経て看板を変えた「聖橋高等学校」に編入されました。中等学校3年修了者を新制高校の1年に、4年修了者を2年に、5年卒業者を3年に編入して、昭和23年4月に新制「高等学校」が全国で1~3年の全学年一斉にスタートしました。このような措置によって、R氏のように新制高校3年に編入された生徒はその翌年昭和24年3月に新制高校を卒業することになりました。

この「聖橋高等学校」と「聖橋中学校」の2枚の門標が懸けられた校舎は残念ながら昭和26年に新制明治大学工学部に売却され、荒川区尾久町(JR田端駅の近く)に土地を購入して新校舎を建てました(写真2)。ここでも2枚の門標が懸けられていますが、写真1の門標とは「左・右」が逆になっています。この両校は、昭和46年3月に閉校されました。

学校法人聖橋学園誕生

聖橋中学校・聖橋高等学校 昭和31年

昭和19年(1944年)聖橋工業学校に昇格した時に「財団法人 聖橋学園」を設立しましたが、これは当時の文部省が私立学校設立認可に際して、強く要請したものでした。理事長にはそれまで2代目校主であった早川静男氏が就任し、校長は2代目の粟野谷蔵氏でした。

戦後の私立学校は、新しい「私立学校法」(昭和24年12月制定)によって、「自主性と公共性」が法定化されて、既存の財団法人は改めて「学校法人」の設立が求められました。こうして、昭和26年(1951年)3月に「学校法人 聖橋学園」が新たに認可・誕生し、その初代理事長には早川氏が就任しました。そしてその年の9月には千代田区御茶ノ水駅近くの聖橋キャンパスを明治大学に売却して、荒川区尾久(現在のJR田端駅近く)に移転したのでした。

埼玉工業高等学校から聖橋工業高等専門学校へ

昭和30年(1955年)7月、粟野谷蔵氏が亡くなってご子息の粟野豊氏が新理事長に就任しました。民間会社から私立学校経営者に転身した3代目の理事長、粟野豊氏は、積極的な経営方針を採り、校舎等の増改築などへの設備投資を重ねる一方、埼玉県の要望に応えて昭和36年に埼玉県大里郡岡部町(現・深谷市普済寺のキャンパス)に、新たに聖橋学園・埼玉工業高等学校を開設し、翌年・昭和37年(1962年)には、同校を新制度の高等専門学校「聖橋工業高等専門学校」に昇格させました。私立の「高専」は当時全国で僅か5校、しかも「機械工学科」だけの工業高専は他に類がありませんでした。

聖橋工業高等専門学校

祥苑学園・桜ヶ丘女子高校

桜ヶ丘女子高等学校 昭和34年

現在、同一法人の中に「正智深谷高等学校」を併置しています。この高等学校の来歴について略述しますと、そのルーツは、昭和27年(1952年)8月、深谷市東大沼(現・深谷市栄町)に産声を上げた「祥苑編物技芸学院」にあります。

この女子のための編物技芸学院(定員40名・各種学校)が、「深谷高等家政女学校」と改称したのが昭和30年(1955年)11月でした。そして、昭和32年(1957年)4月には「学校法人 祥苑学園」(理事長 中村嘉平)として、私立桜ヶ丘女子高等学校を現在の深谷市上野台に開校しました。家庭科だけで発足し、翌年普通科を増設しました。一学年が定員300名の「落ち着いた、クラシックな造りの女子校」でした。この女子校が昭和50年(1975年)「共学」化し、その一年後、本大学開設に合わせて「埼玉工業大学深谷高等学校」となったのでした。

大学と前身校

写真1:中猿楽町校舎(1914年、順天中学校に)

写真2:聖橋工業高等専門学校時代

写真3:桜ケ丘女子高等学校時代

写真4:開学年度(昭和51年)の大学

写真5:埼玉工業大学深谷高等学校時代

本学園の変化に富んだ110年の歩みを綴ってきましたが、内、埼玉工業大学としての歴史は37年弱で、約その3分の1を占めることになります。世に少なからぬ大学が「〇〇大学◇◇史』を謳って、100年以上の歴史を描いておりますが、大学制度史的に我が国で「100年」以上の歴史を有する大学は、実は旧制帝国大学(4校、東京・京都・東北・九州)だけなのです。何故なら、明治の元勲たちは、大学(University)は複数学部を擁する帝国大学でなければならない、という堅い信念を持っていたからでした。私立の大学設置を国が認めるようになったのは、1919年(大正8)になります。その年に大学令(勅令)が制定され、翌年の1920年(大正9)に、慶應、早稲田、そして明治、法政、中央、日大、国学院、同志社が大学と認められました。

「大学」は、「教師」と「学生」の自治的共同体を語源・起源(Universitas)とするということに拘れば、その実体さえ備えていれば「大学」と名乗っても構わない訳で、何も聖なる教会権威や俗なる政治権力が「勅許」するとか、「認可」する対象ではないとも言えます。慶應義塾は1890年(明治23)に「大学部」の名乗りを上げました。しかし、歴史家たちはそれをそのまま大学として認めて来たわけではありませんでした。日本には、帝国大学と名称黙認の「私立大学(College)」というダブルスタンダードの時期がありました。その「黙認」が始まったのが1903年(明治36)の専門学校令制定であり、奇しくも本学のルーツ・東京商工学校が生まれた年なのです。つまり、考え方によっては上記の私学などの多くが、名実を備えた大学(University)として公認された時から数えれば、2020年以降が「大学100年」ということになります。しかし、少なからぬ私立大学が既に「100年」以上の歴史を描いているのは、その前身校の誕生から数えているからです。

ところで、1945年(昭和20)8月、「大学」として「玉音放送」を聴いたのは、何校位だったでしょうか。僅か48校(他に「外地」に5校)に過ぎず、内「私立大学」は27校だけでした。その中に、仏教系大学が6校あり、本学園前理事長・松川|文豪氏が学んだ大正大学の入学定員は当時50名でした。大多数の国民にとって「大学」は遠い存在で、同一年齢層の2%弱が入学する「狭き門」でした。

本学が、1962年開設の「聖橋工業高等専門学校」の廃止を1974年に決めて、埼玉工業大学を設立したのは、1976年(昭和51)4月になります。戦後の日本で、「大学・高等教育計画」と呼べるものの最初は戦後改革期の「新制大学」設置であり、その次は中教審「46答申」(1971年)に始まります。それは「高等教育懇談会」の設置(1972年)に引き継がれて具体化されました。そこでは、私学への経常費助成とセットで「高等教育」の多様化・柔軟化が模索され(「専修学校」等)、「大学」については1976年度から新規増設抑制措置が取られました(因みに1975年度の大学数は420校)。つまり本学は、国の「大学・高等教育計画」の潮目が変わろうとするまさにその時に設立されたのです。国の政策・計画と対陣しながら、滑り込んだとも言える「英断」でもありました。それだけに苦労も多くありましたが、「大学・高等教育」機関の大都市集中への批判が本学の設立には追い風になった面もありました。この経過は何れ詳しく語られることでしょう。